【 川口困民党 】 塩野倉之助

1881年(明治14年) 塩野倉之助の政変で経済政策に失敗した大隈重信より薩摩出身の松方正義に代った。
松方は不換紙幣を回収するために、流通量縮小と増税でデフレ政策をとった。

その当時の物産相場 大豆(単位:円)
明治10年 5.37 1.84 4.42
明治14年 11.17 4.10 6.69

明治6年以降 租税を現物から現金納付になっていたことから、不作の時には皆借金しなければ税を納められない。また、借金の滞納があれば訴えられ強制処分により土地までも手放さなければならない状況に陥ちいりました。 その結果、小作の農民たちは流民となりあふれ出ました。その頃より追い詰められた農民たちによる反乱が各地で始まりました。

明治17年、圧政に堪えかねた農民たちが油屋と呼ばれた豪農で当時村会議員で村民から人望を集めていた塩野倉之助1824年(文政7年)~1907年(明治40年10月1日)の下に集結した。
油屋の倉さん泣かすにわけはない、佐倉宗吾の子別れ語れ〟とうたわれたほどの塩野のところへは農民たちが負債の返済延期や利子の減免などの債主に交渉してもらう代理委任状を提出するという方法で結集していました。その負債書類は、高く積まれてなんと4尺(1.2m)にもなったとも言われています。こうして川口困民党が結成された。

1884年(明治17年)9月1日 突如、塩野家が警察署の捜査を受け、委任書類・盟約書・帳簿が押収され書記役の町田克敬が連行留置された。
1884年 9月5日 二百人余人が西中野村明神山に集結した。善後策を協議したが、会議は結論のでないまま続きましたが、塩野倉之助が単身で八王子警察署へ向かった。二百人余人の農民たちもこれに続いた。町田克敬の釈放と書類の返還を請求したが、警察は解散を命令し、遂には二百人以上が逮捕・拘留された。翌年2月、横浜裁判所で裁判を受け塩野倉之助は兇徒嘯衆罪で軽懲役6年の判決を受け投獄された。
1953年(昭和28年)「 困民党七十年祭 」の成功の後
1954年(昭和29年4月18日)《 困民党首領塩野倉之助之碑 》が当山 安養寺に塩野倉之助の人徳を偲んで郷土の有志が建立しました。

塩野倉之助困民党首領塩野倉之助之碑

塩野倉之助西中野村明神山 子安神社境内
1985年(昭和60年1月15日)建立
この碑は彼の人徳を偲んで郷土の有志が建立したもので、今も史家の探訪が絶えない。

【 塩野倉之助 】1824年(文政7年)~1907年(明治40年10月1日)

塩野倉之助の家は江戸時代以来の名主であり下川口村唐松の油屋と呼ばれた豪農の子として生まれた。村民からの人望も厚く1884年には村会議員も務めておりました。当山 安養寺は塩野家代々の菩提寺であり、一族の墓の他に境内には八王子在住の橋本義夫らによって昭和二十九年に建立された、困民党首領塩野倉之助碑があります。墓地には、永代の塩野家の墓もあり、その中には塩野倉之助のお石塔も現存しています。

塩野倉之助石塔には、菩提、霊位ではなく神霊と記されています。

また、安養寺の川向こうには、塩野倉之助住居跡があり小さな祠が祭られています。

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